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秘密を預かる距離

小説ID: cmo5wscpx000d01s2xxfy30fc

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翌週、沙羅はいつものように施設の奥で蓮を待っていた。だがその表情は、以前のように指示を受けるのを待つだけのものではなかった。机の上には、彼女自身が書いた短いメモが置かれている。外出は夕方に変更、同行者は不要、家への報告は自分から行う。蓮はその文字を見て、思わず二度見した。 「自分で決めたんですか」 「ええ。少しだけだけど」 沙羅はそう言って、控えめに胸を張った。たったそれだけの仕草なのに、蓮には別人のように見えた。誰かに許可を求める前に、まず自分で形を作る。そんな小さな一歩が、彼女の輪郭をはっきりさせていく。 その日の目的は、駅前の喫茶店ではなく、沙羅が自分で選んだ文具店だった。外の世界を知りたいと言っても、最初から遠くへ行く必要はない。自分の手で選べるものを増やすことが、彼女には何より大事だった。棚に並ぶ紙やペンを前に、沙羅は目を細める。 「こういうの、ずっと欲しかったの」 「どれです」 「この、少し青い紙。家だと、誰かが決めたものしか使わなかったから」 蓮は黙って頷き、会計を見守った。彼女は値段を気にして一瞬ためらったが、すぐに自分で財布を開いた。その動きに、蓮は静かに驚く。誰かに支えられて歩くのではなく、支えを受けながら自分で足を出している。その変化は、派手ではないのに確かだった。 帰り道、沙羅は紙袋を抱えたまま、いつもより少し早口で話した。次は一人で店に入ってみたいこと、家の人間に見つからない時間を自分で確保したいこと、将来のことを考えるとまだ怖いけれど、怖いままでも進みたいこと。蓮はただ聞いていた。口を挟むより、その変化を受け止めるほうが大事だと分かっていた。 「あなたがいると、私は少し大胆になれるみたい」 沙羅がそう言ったとき、蓮は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。 「それは、いいことですか」 「ええ。たぶん、とても」 その答えに、蓮はようやく笑った。沙羅はそれを見て、少しだけ視線を外す。けれどすぐに戻し、真っ直ぐ前を向いた。誰かに運ばれるだけの未来ではなく、自分で選び取る未来へ。彼女はまだ途中にいる。それでも、もう止まってはいなかった。 蓮はその姿を見送りながら、自分もまた変わり始めていることに気づく。守るだけで十分だと思っていた。だが今は違う。彼女の選択を支え、必要なら一緒に悩み、時には背中を押す。その距離が心地いいと、初めて思えた。 沙羅は振り返り、ほんの短く手を上げた。以前なら見せなかった、彼にだけ向ける小さな合図だった。蓮は同じように手を上げ返す。夕暮れの街を歩く彼女の背中は、もう誰かの期待に押されて曲がってはいなかった。