沙羅は窓際の席で、指先を重ねたまま黙っていた。外は薄い雨で、街の灯りがやわらかく滲んでいる。蓮は何も急かさず、彼女が言葉を探す気配を待った。ここまで来るのに、秘密も遠回りも多すぎた。だがその全部が、今の沈黙を支えているようでもあった。 「私ね」 沙羅がようやく口を開く。いつもの上品な声ではなく、少しだけ素の温度を含んでいた。 「家の期待に従うだけの人生は、もう選びたくないの」 その一言に、蓮は背筋を正した。沙羅はカップに落ちる自分の影を見つめたまま、続ける。 「断れば困らせるし、逆らえば傷つく人もいる。それでも、誰かの望みのために自分を減らし続けるのは違うと思った。私は、私の時間を選びたい」 蓮はゆっくり頷いた。 「それでいいと思います。いや、そうするべきです」 沙羅が目を上げる。そこには不安もあるが、以前よりずっと真っ直ぐな光があった。 「あなたは、私がわがままでも離れない?」 「離れません」 迷いのない答えだった。蓮は自分でも意外なほど静かに続ける。 「守るだけじゃなくて、一緒に考えます。沙羅さんが選んだことを、僕も選びます」 その言葉に、沙羅の肩から力が抜けた。長く抱えていた硬さが、ひとつ息を吐くようにほどけていく。 「……ずるいわね。そんなふうに言われたら、もう一人では戻れない」 「戻らなくていいです」 沙羅は小さく笑った。取り繕うためではない、心の奥がほどけたときだけ出る笑みだった。彼女は手袋のまま蓮の袖口にそっと触れる。ほんのわずかな接触なのに、それだけで十分だった。 「私、あなたにだけは、ちゃんと見ていてほしい」 「見ています。これからも」 雨音が静かに店先を叩いていた。沙羅は窓の外を一度だけ見て、それから蓮へ視線を戻す。そこには、家に縛られた令嬢ではなく、自分の足で未来へ進もうとする一人の女の顔があった。 二人の間にあった秘密は、もはや隔てではなかった。触れれば確かめられる、信頼という名の輪郭に変わっている。沙羅はもう、誰にも向けなかった安心を蓮にだけ預けていた。蓮もまた、その重みを正面から受け止める。 閉店を告げる柔らかな音が店内に流れた。沙羅は席を立つ前に、ほんの少しだけ蓮の方へ身を寄せる。以前なら見せなかった距離だった。 「ねえ、蓮。私、怖いままでも進むわ」 「はい」 「その時は、隣にいて」 「います」 外へ出ると、雨は止みかけていた。濡れた路面に街灯が長く伸び、二人の影を静かに並べる。沙羅は傘を閉じたまま、蓮の少し後ろではなく、肩を並べる位置に立った。もう誰かに決められた距離ではない。自分で選んだ近さだった。 彼女は一度だけ蓮を見上げ、安心したように目を細める。次の瞬間には、もう誰にも見せない表情で前を向いた。心を開いたまま、それでもちゃんと歩いていくために。二人は言葉少なに並んで歩き出し、雨上がりの街の中へ静かに溶けていった。
秘密を預かる距離
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主人公(男)はスタートアップ企業の若手エンジニア。論理的で冷静。人付き合いは得意ではないが、問題解決力は高い。ヒロインは裕福な家の娘。上品で礼儀正しいが、家の期待に縛られている。外の世界に強い憧れがある。偶然、主人公がヒロインの秘密を知ってしまう。口止めのために関係が始まるが、やがて互いの隠し事を打ち明け合うようになる。関係が変わった時点でラスト。キーマンは主人公の恩人。普段は飄々としているが、物事の核心を見抜いている。キーマンはストーリーを大きく転換させる。最初は距離のあるヒロインが主人公だけに心を開く展開。
