蓮がその男を見たのは、夕方のロビーだった。場違いなくらい軽い足取りで近づいてきた中年の男は、整ったスーツに反して、笑い方だけが妙に気安い。沙羅の家の話をする者が来たと知った瞬間、蓮の背筋は自然と強張った。だが相手は、そんな緊張を見抜いたように片手を上げた。 「そんな顔しなくていい。俺は敵役のつもりで来たわけじゃない」 男は蓮の名刺を一瞥し、にやりと笑った。彼の名は御堂。蓮が以前、別案件で尻拭いをした相手で、仕事の厄介ごとを誰より軽やかに片づける恩人でもあった。 「お前、まだ人付き合いが下手だな。昔からそうだ」 思わぬ言葉に、蓮は返す言葉を失う。御堂はそれを楽しむように肩をすくめた。 「でもな、下手なやつほど、ほんとうに大事なものは見落とさない。特に、隠してるやつのほうがよく見える」 ロビーの向こうで、沙羅がこちらを見ていた。御堂は彼女に気づくと、わざとらしく親しげに会釈した。 「君の秘密は、逃げるためのものじゃないだろう。守られるべき形をしてるだけだ」 その一言が、蓮の中で何かを静かに組み替えた。沙羅が隠しているのは、弱みそのものではないのかもしれない。ただ家に奪われないよう、大切な何かを抱え込んでいるだけなのだと。家の期待に従うために伏せているのではなく、まだ名前を与えられない望みを守るために黙っているのだと。 御堂はそれ以上は何も言わず、蓮の肩を軽く叩いた。 「正解を急ぐな。お前は、相手の沈黙を壊さない才能がある。あれは武器だ」 去っていく背中を見送りながら、蓮は沙羅へ目を向けた。彼女はすぐに視線を逸らしたが、その横顔には、さっきまでの硬さが薄く残っていた。蓮はふいに、自分の過去もまた似た場所に置き去りだったことを思い出す。人に頼るのが下手で、頼られると逃げたくなる。だからこそ、沙羅の秘密をただの保護対象として扱ってきたのかもしれない。 その晩、蓮は珍しく自分から沙羅を喫茶店へ誘った。古い木のテーブル、苦味の残るコーヒー、窓の外を流れる車の赤い尾灯。沙羅はカップを両手で包み、しばらく黙っていたあと、ぽつりと呟いた。 「私が隠しているもの、きっと他人から見たらたいしたことじゃない。でも、私にはたいしたことなの」 蓮は頷いた。 「なら、たいしたことです。御堂さんにも、そう言われた」 「ずるいわね、あの人」 沙羅は小さく笑い、それから真面目な顔に戻った。 「私、ただ黙って従うために隠していたわけじゃない。家が決める未来の外に、自分で選びたいものがあるの。まだ言葉にしきれないけれど」 蓮はその言葉を受け止めたまま、少しだけ身を乗り出した。 「じゃあ、言葉になるまで手伝います。隠すためじゃなく、守るために」 沙羅は目を伏せた。だが次に顔を上げたとき、その瞳には初めて、蓮だけに向ける覚悟の色があった。秘密の意味は変わった。もはやそれは、二人を隔てる壁ではない。まだ名のない未来へ向かうための、静かな合図になっていた。
秘密を預かる距離
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