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秘密を預かる距離

小説ID: cmo5wscpx000d01s2xxfy30fc

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あのカードを返してから、蓮の仕事は妙に静かな綱渡りになった。翌朝、社内端末に一本だけ、知らない番号から短い着信が入る。出ると、昨夜の女性だった。 「昨日のこと、忘れてください」 それだけ言って切れるかと思えば、間を置いて、もう一度だけ声がした。 「……必要最低限の連絡だけ、お願いできますか。私からは、目立つ形では動けないので」 蓮は少し考えてから、了承した。詳しい事情は聞かない。だが、困っているなら放ってはおけない。それだけは、彼の中で決まっていた。 彼女の名は沙羅だった。以後の連絡は、ほんの数行のやりとりに限られた。送られてくるのは、館内の空調が落ちた、控室の施錠が甘い、来客用端末が勝手に再起動する、といった小さな問題ばかりだった。蓮はそのたびに、仕事の合間を縫って原因を切り分け、静かに片づけた。派手な修理ではない。ただ、誰にも気づかれない程度に場を整えるだけだ。 数日後、沙羅のいる施設で、古い会議用端末が読み込みを繰り返して止まらなくなった。担当者は慌てていたが、蓮が確認すると、単なる接触不良と設定のずれだった。数分で復旧させると、背後から低い声がした。 「助かったわ」 振り向くと、沙羅がいつもの端正な装いのまま立っていた。だがその表情は、初めて会った夜より少しだけ柔らかい。 「あなた、こういうのが早いのね」 「早いというより、面倒なだけです」 言い終えてから、蓮は自分の返答が少し不器用だったと気づいた。けれど沙羅は、小さく笑った。その笑みは、周囲の空気をほんの少しだけ変えた。 それから二人は、会えば短く話すようになった。沙羅は、誰にも気づかれない場所でだけ息をつくように、駅前の喫茶店の話や、窓の外を歩く人々の服装を羨むことをぽつりとこぼした。蓮は、聞き役に徹した。自分もまた、会社では期待されるわりに居場所がないこと、誰かに説明するのが苦手で、黙っているほうが楽だと思ってしまうことを、少しずつ話した。 互いの沈黙が、相手を責めるためのものではないと知ったとき、関係はただの秘密の保管から、奇妙な信頼へと変わっていた。沙羅はまだ壁を残していたが、少なくとも蓮の前では、取り繕わない瞬間が増えていった。