終電間際のオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。若手エンジニアの蓮は、モニターに並ぶ数式とログを交互に見比べながら、ようやく止まった不具合の痕跡を追っていた。責任感だけは人一倍あるのに、会議では言葉が遅れ、雑談の輪にもなかなか入れない。仕事はできるが、うまく馴染めない。そんな自覚が、彼の背中をいつも少しだけ重くしていた。 翌日、納品先への急な呼び出しで訪れたのは、街でも目立つ古い洋館を改装したような迎賓施設だった。正面玄関の前で、蓮は運搬中の端末ケースを危うく取り落としそうになり、慌てて受け止めたその拍子に、廊下へ向かう女性と視線がぶつかった。 白い手袋に、控えめな香り。身なりは端正で、立ち姿だけで育ちの良さが伝わってくる。だが、その瞳は驚くほど疲れていた。 「すみません、通してください」 声は柔らかいのに、どこか急かされているようだった。蓮が端に寄ると、女性は礼儀正しく頭を下げて通り過ぎた。だがその際、彼女のカバンから小さなカードが滑り落ちた。拾い上げた蓮が呼び止めるより早く、女性は足を止め、ひどく警戒した顔で振り返った。 「それ、見ましたか」 「いいえ。落ちたので拾っただけです」 彼女は一瞬だけ表情を緩め、カードを受け取った。そこには、外の世界にそぐわないほど簡素な文字で、個人の連絡先らしきものが印字されていた。蓮が何気なく目を向けると、彼女は咄嗟にそれを手の中へ隠し、まるで大切な秘密を守るように胸元へ押し当てた。 「……ありがとうございます」 礼を言ったあとも、彼女はすぐには去らなかった。窓の外を一度見てから、小さく息を吐く。 「ここって、外の空気が少し変わっていますね」 蓮が意味を測りかねていると、彼女は自分でも戸惑うように笑った。 「変なことを言いました。私、こういう場所ばかりで育ったので。もっと、駅前の喫茶店みたいなところが好きなんです。誰も私を知らないところ」 その一言は、上品な声色の奥に潜む切実さを、かえってはっきりと浮かび上がらせた。家の期待に押し固められた肩、窓の外へ伸びる視線、そして触れられるのを恐れるように守られた秘密。蓮は、何か大事な扉の前に立ち会ってしまった気がした。 女性は名乗りかけて、やめた。そのまま短く会釈し、長い廊下の向こうへ消えていく。残された蓮の手の中には、拾ったカードの感触だけが静かに残っていた。
秘密を預かる距離
小説ID: cmo5wscpx000d01s2xxfy30fc
1 / 10
