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時空を巡る桃の守り手

小説ID: cmnmvx98m000001p0d0g5b5wd

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時空の中心は、近づくほどに静かだった。音が消えたのではない。選ぶべきものだけが、ひとつずつ差し出されるように澄んでいた。老人の前に広がる道は、桃色の光でできた細い橋だった。足を乗せればすぐに渡れそうで、しかし一歩遅れれば霧に沈む。振り返れば、ここまで集めた記憶の断片が遠くで揺れている。村の囲炉裏、波止場の紙片、都市の案内灯、若い自分の眼差し。そのどれもが、呼べば戻ってきそうで、呼ばなければ消えてしまいそうだった。 老人は立ち止まった。進めば、桃太郎の痕跡にさらに近づけるかもしれない。だが同時に、ここまで抱えてきた多くの声を置き去りにする気もした。失われた顔を取り戻したい。その執着はまだ胸にあった。けれど今、橋の下で揺れているのは、失われたものではなく、残されたつながりだった。誰かが語り、誰かが受け取り、誰かがまた誰かへ渡す。その連なりが途切れない限り、桃太郎は消えない。 目の前に、二つの扉が現れた。一つは、かつての約束の終点へ通じる扉。もう一つは、まだ名もない未来へ開く扉。老人はしばらく両方を見比べた。失ったものを埋める道は、きっと前者だろう。だが選ぶべきなのは、今残っているものを信じる後者だった。彼はゆっくりと息を吸い、木刀の柄を握り直した。 そのとき、背後から声がした。語り部の若者でも、案内AIでも、若い自分でもない。聞き覚えはないのに、不思議と懐かしい声だった。 もう探さなくていいよ 老人は振り向かなかった。振り向けば、また名を確かめたくなる気がしたからだ。代わりに、足元の光を見つめた。そこには、彼が集めてきた無数の手が重なっていた。転んだ子を起こす手。紙片を結ぶ手。灯を差し出す手。迷う背中を押す手。その輪の中心に、桃のかたちをした小さな温もりがあった。 老人は微かに笑った。探し続けてきた桃太郎は、最初からここにいたのかもしれない。いや、ここにいるのではなく、これからも生まれ続けるのだ。誰かが困り、誰かが手を伸ばすたびに。ならば自分の役目は、姿を追うことではなく、その連なりが途切れぬよう見届けることだ。 老人は右の扉を選ばなかった。左でもない。彼は二つの扉のあいだにある、見えない継ぎ目へ一歩踏み出した。すると橋はほどけ、光は大きな一枚の布のように広がった。そこには、見知らぬ村も、未来の街も、嵐の海も、すべてがひとつに織り込まれていた。 その中心で、老人は初めて、自分の名を思い出した。だが口にはしなかった。名はもう、誰かへ渡すべきものになっていたからだ。彼は木刀を胸に抱き、静かに目を閉じた。旅は終わらない。けれど、追う旅ではなく、守る旅へ変わった。 目を開けたとき、そこに桃太郎の姿はなかった。代わりに、無数の人影がそれぞれの明日を抱えて立っていた。老人はその中へ歩き出した。すると人影のひとつが、彼を見つけて小さく手を振った。老人はうなずく。予想もしなかった結末は、英雄の帰還ではなく、物語そのものが歩き出すことだった。