翌朝、老人が案内された裂け目の先は、硝子の海のように光を反射する近未来の都市だった。空には列車のような細い軌道が幾重にも走り、地上には透き通る壁に囲まれた通りが真っ直ぐ伸びている。人々は皆、耳元の小さな機器に何かを囁き、足を止めることなく行き交っていた。老人が立ち尽くしていると、頭上の表示板が青白く瞬き、案内の声が降ってきた。まるで誰かの気遣いが形を得たように、なめらかで、少しだけ温かい声だった。 「ようこそ。歴史案内区画へ。桃太郎関連資料の閲覧をご希望ですか」 老人は名を聞いた瞬間、胸が跳ねるのを覚えた。案内役の光は、やがて人の輪郭を結び、若い女の姿になった。髪は水面のように揺れ、瞳は街の灯を映してきらめいている。彼女は自らを案内AIだと名乗り、桃太郎の記録映像を示した。そこには、剣を掲げる少年もいれば、子どもに手を振る学生服の青年もいた。さらに別の画面では、重たい外套をまとった旅人が、桃の紋を胸に刻んで群衆を導いている。時代ごとに姿は変わっているのに、どの映像にも同じ眼差しが宿っていた。 「この都市では、桃太郎は一人の固有名ではありません」と案内AIは言った。「災厄を前に立ち上がる者の総称として、何度も再編集されてきました。人々が必要とするたび、彼は新しい顔を与えられたのです」 老人は映像を見つめた。かつて自分が知っていた桃太郎は、たしかにひとりだったはずだ。だが、その記憶は今、無数の手に受け渡された灯のように広がっている。画面の端に、幼い子がこぼしたジュースを学生服の青年が拾う場面が映り込んだ。誰もが英雄の真似をしているわけではない。ただ、困った誰かに自然と手を差し伸べている。その当たり前の動きが、この都市では桃太郎の名として保存されていた。 案内AIはさらに奥へ進み、記録庫の壁面に埋め込まれた年代別の映像を順に示した。古い紙芝居から、街頭広告、学習端末の教材まで、どれも少しずつ違う桃太郎だった。老人はそこに、自分の知るより前から続く、長い息遣いを見た。英雄は消えたのではない。変わりながら、誰かの記憶に住み続けていたのだ。 だが最後に映し出された映像で、老人は足を止めた。画面の中の桃太郎は、誰の顔でもなかった。けれどその手の動きだけは、あまりに自分によく似ていた。まるで遠い未来の誰かが、木刀を握るこの手の癖まで覚えていたかのようだった。 老人の背後で、都市の灯が静かにまたたく。案内AIは何も言わず、ただ微笑んでいた。桃太郎を語り継ぐこの街に、自分がまだ知らぬ役目が潜んでいる。老人はそう感じながら、次の記録室へ向かう足を止めなかった。
時空を巡る桃の守り手
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