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時空を巡る桃の守り手

小説ID: cmnmvx98m000001p0d0g5b5wd

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その時代の海辺は、風がまず人を試した。岸壁に打ちつける潮は荒く、空は低く垂れ、遠くの水平線は鉛のように重かった。波間には小舟の残骸が揺れ、浜辺の砂は濡れて黒く光っている。老人が裂け目から降り立つと、潮風が袖を裂くように吹きつけ、桃の香りはたちまち塩に塗り替えられた。 崩れかけた波止場の下で、若い男がひとり、濡れた木箱を押さえていた。肩に細長い包みを背負い、額には海水と汗が混じっている。老人が近づくと、男は警戒より先に目を上げた。その瞳は、波に消えかける火を何度も見送ってきた者の色をしていた。 「そこ、危ないです」 声は若いが、どこか古い響きを持っていた。老人が足を止めると、男は木箱のふたを閉め、布で結び直した。中には濡れた紙片が収められていた。文字は滲んでいたが、海の民が語り継いできた歌や話の断片だという。 「僕は、語り部です。村から村へ、残った話を集めています」 男はそう名乗った。荒れた海では、船も記憶も簡単に失われる。だから物語を口から口へ渡し、波に持っていかれないように結ぶのが自分の役目だと言う。老人はその言葉に、囲炉裏の火を見つめていた夜のことを思い出した。名を呼ぶだけで背筋が伸びる、あの静かな力だ。 語り部は、老人の木刀を見ると少し目を細めた。 「それ、鬼退治の話に出てくるものですか」 老人が答えに迷うより早く、男は波止場の柱に貼られた古びた札を指した。そこには、桃太郎の名を記した文字が風雨で半ば削れていた。だが、消えかけた字の横に、子どもの落書きのような丸い桃の絵が添えられている。男はそれを見て、にっと笑った。 「こういうのを、僕は拾うんです。完全な記録じゃなくても、誰かが覚えた形なら残せる」 老人はその笑みに、胸の奥の硬い殻が少し割れるのを感じた。桃太郎は、英雄として立つだけではない。語り継がれるたびに姿を変え、失われそうになりながらも、誰かの手で結び直されてきた。目の前の若者は、その結び目を守る者なのだ。 そのとき、浜を走る強い風が札を一枚はがした。紙片は渦を描き、濡れた岩場の向こうへ飛んでいく。語り部が追いかけようとした瞬間、老人が先に木刀を伸ばし、枝を扱うように紙を受け止めた。男は驚いたように目を見開き、それから深く頭を下げた。 「ありがとうございます。……あなたと一緒なら、次も拾えそうです」 老人は紙片を渡しながら、裂け目の気配を背後に感じた。次の時空はまだ見えない。だが、この若者がいれば、途切れかけた物語をまたつなげられる気がした。語り部は木箱を抱え直し、老人の隣に立つ。二人の影は荒い波音に伸び、ひとつの道のように浜辺へ続いていた。 「行きましょう」 その一言で、海は少しだけ静かになった。