裂け目の奥へ踏み込んだ瞬間、老人は足元の感覚を失った。海辺の潮の匂いも、近未来の光も、古い村の土の温度も、ひとつに溶けて渦を巻く。次に目を開けたとき、そこは地面なのか空なのか判然としない、薄暗い宙づりの広間だった。遠くで鐘が鳴るたび、壁のように立ち並ぶ記憶のかけらが震え、昔の祭囃子、誰かの泣き声、戦の足音が無秩序に流れ出す。 老人は木刀を握り直した。だが指先が妙に遠い。掌の皺も、武具の重みも、自分のものではないように感じられる。先ほどまで胸にあった桃太郎を追う熱だけが、薄い灯のように残っていた。頼りにしていた名を思い返そうとすると、口の中で砂がこぼれるように記憶がほどけていく。 私は、誰だったか。 その問いが胸を打った。桃の匂いで目覚めたことも、守るべき約束があったことも、確かに知っている。だが肝心の輪郭が曇っていく。あの若者の顔はもちろん、自分の名さえ霧の向こうへ沈み始めていた。追えば追うほど、桃太郎の痕跡は増えるのに、肝心の自分だけが削られていく。その事実は恐ろしく、同時にどこか納得できた。守る者は、守るものに重ねられて薄くなることがある。 広間の奥で、裂け目はさらに開いた。そこには桃太郎の姿ではなく、いくつもの時代で拾い集めた手の動きが重なっていた。転んだ子を起こす手。紙片を結ぶ手。案内の灯を差し出す手。どれも同じ形ではないのに、確かにひとつの願いをしていた。老人はそこで初めて悟った。桃太郎を探す旅は、失われた過去を元に戻すためだけのものではない。いま残っている希望を、未来へ渡すための選び直しなのだ。 ならば、自分の記憶が薄れてもかまわないわけではない。だが、消えゆくものを恐れて立ち止まるのではなく、薄れた先に続く誰かへ手を伸ばすことはできる。桃太郎がひとりの顔でなくなったのなら、その名を呼ぶ者の背中を支える役目が残るはずだ。 老人は木刀を肩に担ぎ、裂け目の中心へ進んだ。すると広間の奥から、見覚えのない笑い声が返ってきた。その声は桃太郎のものではなかった。けれど、確かに約束の匂いを持っていた。老人は微かに目を細め、もう名を確かめることに執着しなかった。誰であれ、ここで手を差し伸べる者がいるなら、それでいい。彼は崩れゆく景色のただ中へ、静かに歩みを進めた。
時空を巡る桃の守り手
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