老人が降り立った先は、石垣の低い古い村だった。屋根は黒く焼け、用水路には澄んだ水が細く走り、桃の木だけが季節を忘れたように白い花をつけている。空気は湿っていたが、どこか祭り前の胸騒ぎを帯びていた。畑仕事をしていた女たちが、見慣れぬ老人を警戒しながらも、桃の木の下へ案内してくれる。そこはこの土地で一番古いとされる場所で、子どもが病まず、獣に荒らされず、川が氾濫しないよう願いをかける場だという。 「ここにはね、桃から生まれた若者の話があるんですよ」 年かさの女がそう言って、日焼けした手で土を撫でた。昔、川上から流れてきた大きな桃を村人が割ると、赤子ではなく、目のまっすぐな少年がいた。少年は鬼を退けたが、それ以上に、人の気後れを退けたのだと女は語る。貧しい家の子も、怪我で働けぬ者も、その少年が一度笑いかければ、自分も明日を迎えてよいのだと思えた。桃太郎という名は、強さの証ではなく、希望の合図だった。 老人はその話を聞きながら、胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。かつて自分が守るべきだった相手は、ただ敵を倒す英雄ではなかった。人々の暮らしを、明日を、諦めるには早いという気配を背負っていたのだ。 村の社に残る古い板絵も見せてもらった。墨で描かれた少年は、剣を掲げているのではない。腰をかがめ、転んだ子どもに手を差し出していた。老人はその絵を見つめ、ふと記憶の底から、温かな笑い声を思い出しかける。だが輪郭になる前に、風が吹いて板絵の埃を揺らした。 その夜、村人たちは囲炉裏のそばで昔語りを続けた。桃太郎が去ったあとも、人々は鬼のようなものに怯えるたび、互いに声を掛け合ったという。名を口にするだけで背筋が伸びる。困ったとき、背中を押してくれる。英雄は遠い昔の一人ではなく、受け継がれる気持ちそのものになっていた。 老人は静かに木刀を膝に置いた。探すべきものは、姿形だけではない。桃太郎の名が、なぜ今もこの土地で息づいているのか。その意味を知ることが、次の扉を開く鍵になる。彼は囲炉裏の火を見つめながら、裂け目の向こうで揺れていた時代の灯りを思い出した。そこへ進めば、もっと多くの記憶に触れられるはずだ。けれど同時に、名を追うほどに何か大切なものを取りこぼしている気配もあった。 それでも老人は立ち上がらなかった。今はまだ、この村の言葉を聞いていたかった。桃太郎はここにいない。だが、いないはずの者が、誰かの明日を支えている。その事実こそが、旅の始まりに必要な確かな手触りだった。
時空を巡る桃の守り手
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