目を覚ましたとき、老人は桃の匂いを知っていた。 それは甘い果実の香りではなく、雨上がりの川辺にふわりと残る、遠い昔の約束の匂いだった。畳の上に起き上がった彼は、しわだらけの手を見つめ、次に部屋の隅に立てかけられた木刀へ目をやった。どちらも覚えがある。だが、もっと大切な何かが、すっぽり抜け落ちている気がした。 戸を開けると、外の景色は静かすぎた。村はずれの桃畑は風に揺れているのに、人の声がない。犬の吠える気配も、鍬を振る音もない。老人は胸の奥が冷えるのを感じた。いつもなら、あの若い英雄が笑いながら駆けてくるはずだった。鬼に立ち向かうためでも、村の子どもを安心させるためでも、彼はいつだって先に立っていた。 桃太郎。 名を呼んだ瞬間、記憶のひとひらが震えた。だが輪郭はつかめない。顔も声も、まるで朝霧の向こうに隠されている。老人は村を歩き回り、井戸端で水を汲む老婆にも、竹籠を背負った青年にも尋ねた。誰もが首をかしげ、どこか戸惑った顔をした。桃太郎という名を知る者はいる。けれど、その行方をはっきり覚えている者が、ひとりもいない。 それどころか、村の中央にある古い石碑に刻まれていたはずの文字が、薄い霞のように剥がれ落ちていた。風化ではない。何か大きな手が、歴史の縁を静かになぞって消したようだった。 老人は石碑に手を当て、目を閉じた。胸の奥で、見えない鐘がひとつ鳴る。今ここで立ち止まれば、桃太郎は本当に失われる。そんな予感が、骨の芯まで染み込んでいた。 そのとき、桃畑の向こうで空が裂けた。 雷ではない。雲でもない。空そのものに細い傷が走り、そこから深い紺色の闇がのぞいた。老人は息をのんだ。裂け目の向こうには、見たことのない街の灯りも、古びた城壁も、まだ名のない時代の気配も揺れている。まるで時間が、ひとつの布として引き裂かれたようだった。 老人は木刀を握った。指先がかすかに震える。だが恐れより先に、確かめたいという思いが立ち上がる。桃太郎が消えた理由を知りたい。失われた約束を拾い直したい。たとえその先に、自分自身の記憶までほどけていくとしても。 彼は裂け目へ一歩踏み出した。冷たい風が頬を打ち、桃の香りが遠ざかる。次の瞬間、世界は音もなく裏返り、老人の旅が始まった。
時空を巡る桃の守り手
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