chapalette Logo

噂をほどく二人

小説ID: cmo5wtcbz000q01s2nw6xv9ne

8 / 10

公開討論の会場は、研究発表会の一角に設けられていた。白いスクリーンの前に並ぶ椅子、録音機材、見物に来た学生たちのざわめき。逃げ場のない明るさが、かえって嘘を浮かび上がらせる。僕は資料の束を整えながら、男が現れる瞬間を待っていた。彼は必ず、穏やかな顔のまま自分の都合のいい物語を語る。だからこそ、人前で言葉を引き出せば、仮面はひび割れる。 彼女は開演直前まで黙っていた。けれど、指先の震えはもう隠そうとしない。やがて彼女は深く息を吸い、私が話します、とだけ言った。その一言は、控えめなのに、背中を押す力を持っていた。 男が壇上へ呼ばれると、会場の空気が少し張りつめた。彼はいつものように丁寧に頭を下げ、彼女のために動いてきたと語り始める。僕は質問役として名を出し、彼の発言の端を静かに拾った。最初は順調だった。だが、彼が彼女の近況を説明する場面で、ひとつの矛盾が生まれた。 それは先ほど、君自身が言っていたことと違います。僕がそう指摘すると、男の笑みがわずかに止まる。 違いますね。あなたは、彼女が自分で選んだと言いながら、戻る場所があるとも言った。どちらですか。 会場の視線が一斉に集まった。男は一瞬だけ言葉を探したが、すぐに穏やかな口調へ戻そうとした。けれど、その場しのぎの滑らかさはもう効かない。僕は資料を開き、時刻の並びと投稿の順番、彼が接触した日付を淡々と示した。彼が作ったはずの流れは、むしろ彼自身の癖を証明していた。 男は笑顔を保とうとしたが、頬のあたりが固くなる。そこで彼女が立ち上がった。 私も話します。 会場が静まり返る。彼女は手元の紙を見ることもなく、真っ直ぐ前を見た。仕事先で何を言われたのか、断るたびに家の名を持ち出されたこと、沈黙すれば守られると信じ込まされていたこと。声は震えていたが、言葉は途切れなかった。初めて自分の経験を自分の順番で語る彼女は、薄い硝子細工ではなかった。嵐の中でも折れない、静かな刃のようだった。 男の穏やかな仮面に、目に見えるひびが走った。そんなふうに言う必要は、と彼は遮ろうとしたが、もう遅い。 必要です、と彼女は返した。私は、あなたの守るものではありません。 その一言で、場の空気が完全に変わった。誰かが録音を止める音がする。別の誰かが息を呑む。男はなおも取り繕おうとしたが、彼女の言葉と僕の記録が、逃げ道を塞いでいた。彼は最後に、心配していたんです、とかすれた声を絞り出した。けれど、その声にはもう、優しさの形が残っていなかった。 会場を出たあと、彼女はしばらく階段の踊り場に立っていた。外の風が細く入り込み、彼女の髪を揺らす。終わったのではなく、始まったのだと分かる顔だった。 これで、ようやく自分の声が自分のものになった気がします、と彼女が言う。 僕は頷いた。彼女が選んだ沈黙を、今度は誰も奪えない。 そしてその夜、僕たちは思いもよらない連絡を受け取る。男が流していた噂の出どころが、彼個人ではなく、彼女の家と彼の旧い取引に繋がっていたという記録だった。守ると言い続けた相手こそが、最初から彼女の自由を値札にしていたのだ。彼女はその封筒を見つめ、しばらく何も言わなかった。やがて、小さく笑った。 私、外へ出ます。今度は、逃げるためじゃなく。 僕はその言葉に、静かに頷いた。