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噂をほどく二人

小説ID: cmo5wtcbz000q01s2nw6xv9ne

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その人物が姿を現したのは、研究棟の談話室だった。柔らかな笑みを浮かべ、資料を抱えたまま近づいてきた男は、彼女の元仕事関係者だと名乗った。声は低く、物腰は丁寧で、見る者に安心を与える種類の穏やかさがあった。だが僕は、彼の笑顔が目に届く前に整えられていることに気づいた。感情が自然に滲んだ形ではなく、先に結論だけを並べたような顔だった。 久しぶりですね。君のことは心配していたんです。そう言いながら、男は彼女の肩越しに資料を覗き込んだ。まるで許可なく距離を詰める癖が、呼吸の一部になっているみたいだった。今は余計なことを聞かれやすい時期ですから、こちらで守りますよ。戻ってきたら、以前のように落ち着いた場所で働けるよう手配します。 表向きは親切な申し出だった。けれど以前のように、という言葉だけが妙に重い。彼女の背筋が、ほんのわずかに固くなる。僕はその変化を見逃さなかった。 お言葉はありがたいですが、と彼女が答える。続く言葉を選ぶように、視線が一度だけ揺れた。私は今の環境で学びたいことがあります。 男は笑みを崩さないまま頷いた。学ぶのはいいことです。ただ、君は無理をしがちだ。周囲に合わせすぎる。君のためを思えば、守るべき場所は決まっている。 その瞬間、僕は違和感の正体を見た。守ると言いながら、彼は選択肢を減らしている。褒めるようでいて、彼女の動ける範囲を狭めている。相手の自由を認める言葉ではなく、定位置へ戻すための檻の鍵だ。 さらに数分後、僕の端末に不自然な通知が連続で届いた。匿名の投稿で、僕が彼女の噂を面白がって広めたように見せる文面が並んでいる。しかも、研究室の内輪しか知らない話まで混ぜられていた。立場を揺さぶるには十分だった。 ずいぶん手際がいいですね、と僕は男を見た。 彼は目を細めた。何のことですか。 僕は武術サークルで学んだ癖のまま、呼吸と指先の動きを見た。今の質問で、彼の笑顔が一拍遅れた。答えを用意していないのではない。想定外の反応を、表情でごまかしたのだ。 君は彼女を外へ出したいんですか、と男が静かに言う。あの家の重さを知らないから、そんなことが言える。彼女はここにいるのが一番安全なんです。 違います、と彼女が口を開いた。 その声は小さかったが、確かに空気を押し返した。男が初めて彼女を見る。彼女は一度息を吸い、まっすぐ言葉を続けた。安全なのではありません。都合よく扱われていただけです。私は、あなたの期待に応えるためだけにここにいるわけじゃない。 談話室の空気が変わった。彼はなおも穏やかな声を保とうとしたが、そこに滲む焦りは隠せなかった。僕はそこで、彼が彼女を大切にしていたのではなく、手放したくなかったのだと理解した。優しさを装った執着は、向ける矛先を失った途端、ただの支配になる。 彼女はもう一度、はっきりと言った。私は、自分で選びます。もう、戻りません。 男の笑顔が、そこでようやく剥がれ落ちた。