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噂をほどく二人

小説ID: cmo5wtcbz000q01s2nw6xv9ne

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男の顔から、穏やかさだけが滑り落ちた。談話室の窓から差す午後の光が、薄い笑みの残像を白く縁取る。彼は彼女を見据えたまま、まだ間に合うと言いたげに口を開いたが、その声は以前のように滑らかではなかった。 君がいま何を言っているのか、わかっているのか。戻る場所を失うだけだ。 その言葉に、彼女は怯まなかった。むしろ、ずっと胸の奥に沈めていたものを掬い上げるように、ゆっくり首を振った。失うのは戻る場所ではありません。自分で考える時間です。選ぶ権利です。私はもう、誰かの都合のいい答えになりたくない。 その瞬間、僕の端末に届いていた不自然な通知の波が、ただの悪意ではないと確信に変わった。男は第三者を使い、僕が彼女を利用しているように見せる断片を撒いていたのだ。けれど矛盾はすでに見えている。僕が噂を広めたという投稿の時刻は、男がここへ来るより前に集中していた。文体も、以前に彼が使っていた回りくどい表現と同じ癖があった。 僕は端末を掲げた。流したのは僕ではありません。しかも、情報源を一つに見せかけています。意図して、ですよね。 男の目がわずかに細くなる。証拠になると思っているなら、甘い。そう言いかけたその時、彼女が机の上の記録を指さした。そこには、彼女自身が保管していた連絡の控えと、僕が並べた時系列がある。誰が、いつ、どの話を誰に渡したのか。薄い線だったはずのものが、一本の糸になっていた。 彼は一歩だけ退いた。だが、まだ終わっていないと言うように、僕へ視線を投げる。 君は彼女を焚きつけているだけだ。彼女は強くない。 違う、と彼女が即座に返した。強いからじゃない。黙っているのをやめただけです。 その声は震えていた。けれど、震えの奥に確かな芯がある。僕はその変化を見て、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。彼女は守られるだけの存在ではない。自分の足で立ち、自分の言葉で境界を引こうとしている。 僕は一歩前へ出た。あなたは彼女の不安を利用して、周囲の印象まで操作した。なら、次に必要なのは説明ではなく、記録です。言い逃れの余地がない形で、整理します。 男は答えなかった。代わりに、呼び止めるような視線を一度だけ彼女に向けた。だが彼女はもう見返さない。握りしめた指先に力を込め、はっきりと言った。 私は、家の期待に従うために生きてきました。でも、もう違います。私は私の意思で進みます。 その言葉が落ちると同時に、談話室の空気は決定的に変わった。誰かに合わせるための沈黙は、そこで終わった。僕たちは孤立しかけていたが、同時に孤立を破る入口も見つけていた。相手が広げた霧の中で、彼女は初めて自分の輪郭を自分で選んだ。僕はその隣で、まだ終わっていない調査をもう一度見据えた。逆風でも、進む道はある。今度はそれを、僕が切り開く。