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噂をほどく二人

小説ID: cmo5wtcbz000q01s2nw6xv9ne

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大学院の研究室は、夜になると妙に正直だった。蛍光灯の白い光の下、僕は実験結果のずれを追いながら、机の端に積まれた資料の山を一枚ずつ整えていた。武術サークルで身についた癖は、今も残っている。相手の呼吸、視線、指先の動き。わずかな違和感を見逃さないことが、危険を避ける第一歩だと身体が覚えていた。 その日の紹介者は、学部時代の知人だった。研究会の後片付けを手伝っていると、彼女は彼の隣に立っていた。黒髪を丁寧にまとめ、所作の一つひとつが驚くほど整っている。名家の娘だと聞いていたが、それだけでなく、周囲に気を配る癖が骨の奥まで染みついているように見えた。名前を名乗る声は柔らかいのに、笑うたびに少しだけ遅れて、目の奥が曇る。 はじめまして、と彼女は礼儀正しく頭を下げた。完璧な挨拶だった。けれど僕には、その完璧さが少し痛々しく映った。隣に立つ彼女は、まるできちんと磨かれた硝子細工のようで、触れれば壊れてしまいそうだった。 研究の話を向けると、彼女は意外なほど真剣に耳を傾けた。専門外のはずなのに、理解しようとする姿勢がある。だが話題が家のことに触れると、返事がほんの少しだけ固くなる。外の世界に興味がない人ではない。むしろ逆だ。窓の向こうを見上げる子どものような目を、すぐに礼儀の面で覆い隠してしまう。 その違和感を胸の片隅に残したまま数日が過ぎたころ、研究室の空気が変わった。昼休みの雑談が妙に途切れ、視線だけが彼女の方へ流れていく。はっきりした証拠はない。ただ、誰かが見た、聞いた、そんな曖昧な言葉が先に歩き出している。名家の娘が何かを隠しているらしい、という噂だった。 噂は、形を持たないまま人の顔色を変える。笑っていた者が急に黙り、親しげだった声が遠のく。彼女はそれに気づいていないふりをしていたが、指先だけが落ち着かなく揺れていた。 僕は資料を閉じた。研究でも人間関係でも、曖昧なまま放置された違和感は、やがて大きな誤差になる。あの窮屈そうな横顔を思い出す。彼女はたぶん、ただそこにいるだけで、誰かの期待と噂の両方に挟まれている。 見過ごせない、と僕は静かに思った。彼女が何者かを決めつける前に、まず確かめるべきことがある。噂の正体も、彼女の本当の姿も。