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噂をほどく二人

小説ID: cmo5wtcbz000q01s2nw6xv9ne

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僕は翌日から、噂に触れたという人たちへ順番に話を聞いた。研究室の同僚、同じゼミの学生、彼女の名を口にしただけで視線を逸らした事務員。問いかけは同じでも、返ってくる答えは少しずつ違う。昼に見たという者もいれば、夕方に聞いたという者もいる。場所も、相手も、肝心な一節も微妙にずれていた。事実の核より、空気の重さだけが共有されている。僕はその不自然さを、静かにメモへ落としていった。誰かが話を作り、あとから人の記憶を縫い合わせている。そう考えるのが一番筋が通っていた。 その日の夕方、彼女は学内の古い別館へ僕を連れていった。人の出入りが少ない廊下を抜けるたび、磨かれた床に二人分の足音が小さく響く。ここは、家の人間が来るときだけ使う控室です、と彼女は淡々と言った。けれど扉を開けた瞬間、その声にわずかな陰りが差した。整えられた室内は清潔で、窓辺には季節の花が飾られている。それなのに、どこか空気が薄い。息を吸うたび、見えない形で背筋を正されるようだった。 ここでは、失敗することが許されないんです。彼女は机の端に指を置いたまま、そう言った。食事の順番、返事の間、話題の選び方まで、すべてに目がある。家の期待は、いつも優しい顔で近づいてくる。でも逃げ道はない。外へ出たいと思うだけで、わがままだと言われるから。 僕が黙って聞いていると、彼女は少しだけ表情を緩めた。いつもは完璧に見える所作が、ここでは逆に重荷なのだとわかった。気高さは生まれつきのものではなく、崩れないように積み上げた板のようなものだった。その下にあるのは、孤独だった。誰にも触れられないように磨かれた孤独だ。 彼女は続けて、噂が広がり始めてから、家でも笑顔を崩せなくなったと打ち明けた。心配をかけまいとして、余計に息苦しくなる。外からは何も見えないのに、内側だけが少しずつ削られていく。その言葉に、僕は自分の胸の奥が静かに痛むのを感じた。 それでも彼女は、僕の前では時々本音を零した。研究の話をすると目が少しだけ明るくなること。夜風の匂いが好きなこと。誰にも知られず駅前の広場を歩くのが、密かな楽しみだったこと。そうした小さな欠片を拾うほど、僕は彼女が噂とはまるで別の人間だと確信していった。強く見えるのは、弱さを隠すためではない。ただ、立っていなければならなかったからだ。 別れ際、彼女は玄関先で立ち止まり、ここまで一緒に考えてくれる人は初めてです、と言った。礼儀正しい声だったのに、そこには確かな温度があった。僕は頷くだけで答えたが、その一瞬、彼女の視線がほんの少しだけ長く僕を見た。気づけば、守りたいという気持ちはもう最初よりもずっと深くなっていた。