兄が資料を手にしたまま黙り込んでいるあいだ、部屋の空気は張りつめたままだった。遥は口を引き結び、俺の袖に触れそうで触れない距離に立っている。さっきまでの気まずさは消えていない。それでも、兄の目つきだけは少し変わっていた。疑いの色の奥に、見逃していたものを見つけた人間の戸惑いが混じっている。 「君は、口で安心させるより先に、手を動かすんだな」 そう言われて、俺は肩をすくめた。 「それしか取り柄がないので」 兄は鼻で笑いかけ、しかしすぐに真顔に戻った。机の上には、俺が並べ直した記録と、遥がこれまで隠してきた断片がある。派手な証拠ではない。だが、時刻のずれ、番号の飛び、反射に映った封筒、無理を重ねた生活の跡。そういう細い糸を繋ぐと、見えなかった輪郭がくっきりしてくる。 「遥が抱えていたのは、ただの疲れじゃない。誰かに渡すはずだったものを、途中で止められたまま隠していた」 兄の声は低かった。怒りよりも先に、理解が来てしまった顔だった。 遥は俯いたまま、小さく息を吐く。 「……言えなかった」 その一言だけで、今までの強がりが少し崩れた。俺はそこで初めて、彼女が頼ることを怖がっていたのは、弱さを見せることじゃなく、信じた相手まで巻き込んでしまうことだったのだと気づく。 そのとき、廊下の向こうで慌ただしい足音がした。スタッフが顔色を変えて飛び込んでくる。 「すみません、本番データの送信が止まりました。原因がわからなくて」 兄が舌打ちしそうな顔になる。だが俺はすでに画面を開いていた。映像の隅で見つけた違和感を起点に、履歴を引き直す。すると、止まったはずの送信が、別の番号へ静かに振り替えられていた痕跡が浮かび上がった。誰かが誤魔化すために混ぜた手順が、逆に自分の首を絞めている。 「ここです」 俺が示した先を見て、兄の眉が跳ね上がる。 「そんな場所に」 「だから見落とされるんです」 目立つ場所なら、最初から誰かが気づく。けれど、端に置かれた情報ほど、危ういものは隠しやすい。俺は不要な項目を切り、本当に必要な流れだけを残した。編集と同じだ。全部を抱えたままでは、画面も人も持たない。 しばらくして、送信は正しい順番で再開した。兄は画面を見つめたまま、短く息を吐く。 「君がいなければ、遥は最後まで一人で抱え込んでいたな」 「たぶん、そうです」 「そして俺は、妹を守っているつもりで、余計に追い詰めていた」 その言葉に、遥が顔を上げた。驚いたような、それでいて少し救われたような表情だった。彼女は何か言おうとして、結局うまく声にできない。代わりに、俺の袖をそっとつまむ。ほんの一瞬だけだったが、そこに確かな信頼があった。 兄はそんな二人を見て、苦く笑った。 「評価を改める。君は口先だけの男じゃない。実際に人を支えるやつだ」 その一言は、俺にとって想像以上に重かった。これまで、目立たない、地味だ、影が薄いと散々言われてきた。だが今ここで初めて、見えにくい力が見えたと告げられた気がした。 遥はそっぽを向いたまま、小さく言った。 「……私は、ちゃんと助かった」 それは謝罪でも礼でもなく、ようやく口にできた本音だった。俺は何も返せず、ただ頷く。兄はその様子を見て、少しだけ表情を和らげた。 部屋の外では、まだ慌ただしさが続いている。それでも、俺たちの足元にあった危うい板は、ようやく踏み抜かれずに済んだ。遥はまだ全部を預けることに慣れていない。けれど、今の沈黙は拒絶ではなかった。 信じる言葉の代わりに、彼女は俺のそばに立つ。兄はそれを止めない。初めて得た評価は、俺の見えない仕事が確かに誰かを救ったという証拠だった。次に進む理由なら、もう十分すぎるほどある。
幼なじみの相談役
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