chapalette Logo

幼なじみの相談役

小説ID: cmo5wpucx000001s2a8yjyb3e

7 / 10

兄が黙ったまま立ち尽くすと、編集室の空気はさらに張りつめた。遥は腕を抱えたまま、逃げ場のない箱に閉じ込められたみたいな顔をしている。俺は机の上の資料を整えながら、兄の視線の奥にあるものを見ていた。敵意だけじゃない。守れなかったらどうするという怯えが、硬い殻の下で震えている。 「まだ疑いますか」 俺がそう言うと、兄は眉間に皺を寄せた。 「信用の問題ではない。遥にこれ以上無理をさせたくないだけだ」 その声は厳しいのに、妙に疲れていた。俺はそこで初めて、兄がただの監視役ではないと確信した。妹を守るために、必要以上に先回りしてしまう人間だ。けれど先回りは時に、本人の息を止める。遥が黙り込む癖を身につけたのも、その圧の中だったのかもしれない。 「なら、止めるんじゃなくて、減らしましょう」 兄がわずかに目を上げる。 俺は続けた。映像の差し替え、連絡の整理、買い物の段取り、外から来る確認事項。ひとつひとつは小さくても、重なれば彼女の肩を潰す。問題は遥の我慢ではなく、我慢が当たり前になる流れだ。切るべきは本人の気力じゃない。回し方のほうだ。 その言葉に、遥が初めてこちらを見る。驚いた顔だった。誰にも言えなかった部分を、代わりに言葉へ変えられたからだろう。 廊下から足音が近づいたのは、その直後だった。慌ただしく扉が開き、スタッフの一人が息を切らして飛び込んでくる。 「まずいです。本番用のデータ、別の番号で流れそうになってます」 兄の顔色が変わった。遥は唇を噛み、俺は即座に画面へ向かう。さっき見つけた通知の癖を手がかりに、関連する履歴を引き出す。数字の並びを追うたび、見えなかった線が一本ずつ結ばれていく。誰かが曖昧なまま押し通そうとした手順が、今になって牙をむいたのだ。 「こっちです」 俺が示した先には、差し替え前の確認用データと本番データが、ほとんど見分けのつかない形で混ざっていた。派手な罠じゃない。目立たない場所に置かれた、ただの入れ違い。だが、こういう見落としが一番危ない。 兄が低く息を吐く。 「……君が気づかなければ、遅れていた」 「気づける場所にあっただけです」 そう答えると、兄は少しだけ口元を緩めた。初めて見せた、諦めに似た笑いだった。 遥は机に手をつき、ようやく肩の力を抜いた。 「兄さん、私、平気じゃなかった」 「わかっていた」 「だったら、もっと早く」 そこで言葉が途切れる。兄は何も返せない。ただ、深く目を閉じた。過保護は愛情の形だが、行き過ぎれば檻になる。そのことを、ようやく二人とも同じ場で知ったのだ。 俺は作業を続けながら、あえて口を挟まなかった。対立で壊れる関係なら、こうして少しずつ組み直すしかない。修正は一度で終わらない。削って、確かめて、残す。その繰り返しだ。 やがて本番データは正しい順番に戻り、確認用の映像も安全な形へ整った。騒がしかった空気はまだ完全には解けていない。それでも、兄は俺の隣の画面を見て、短くうなずいた。 「……頼む」 命令ではなく、初めての依頼だった。 遥はその言葉を聞いて、少しだけ目を丸くしたあと、俯いて笑った。きつく結んでいた糸が、ほんの少しだけ緩む。その変化が、今の俺には何より大きく見えた。 三人の距離はまだぎこちない。だが、互いの本音はもう、隠したままにはできない場所まで出てきている。兄は妹を守るやり方を探し直し、遥は一人で抱える癖を少しだけ手放し、俺は見落とされる隅に手を伸ばし続ける。崩れかけた日常は、そうやってようやく次の形を選び始めていた。